おじちゃんにちゃんとお別れしてきました。


朝、お別れをしに行きながら昨日はそのまま1日お手伝い。


田舎の(都会でも同じかな?)お葬式は結構忙しいですあせる


朝から晩までキッチンにいて、3食の準備のお手伝いや、お茶を出したり。


その他諸々。


まぁ、おじちゃんから見て我が家は本家に当たるので…


なおさら忙しいと言うか、、


それでも今日は義父の病院もあり、午後は仕事。お手伝いにいけないことを昨日伝えてきたので、今日は夜お手伝いにいけたら少しだけ顔を出しに行ってこようかな~?と思ってますけどね。


前の日の元気な姿からは考えられないほどの急変で、突然逝ってしまったので驚いて慌てて駆けつけてくる方が多かったですね。


寿命は、誰にもわからない…そんな事を考えていました。


昨夜家に帰ってきて何気なく夕刊を読んでいたら、


「歳を重ねるとは、この世の事をいかに多く知ったか、できたかを語る権利を有する事ではない。むしろこの年まで生きて、いかに知らない事が多いかを自覚することではないかと思う。その自覚から再び何かに向かって歩みだす事ができる。」


という事が書いてあって、そうかもしれないな~と。。。


身近な方の死に直面すると、なぜか考えが哲学的な方向にすすみがちになってしまいます(苦笑)


まぁ、あまり難しい事は考えているわけではありませんが、やっぱり基本はこうやって毎日当たり前の朝を迎えられると言う事はありがたいと言う事。


今日という日、大袈裟に言えば1秒前の出来事だってすでに過去のこと。


そう、今日という日は二度とやってこないのだから、日々1日を大事に楽しく笑顔で過ごしていけたらいいな~と。。あらためて思ったりしています。


生きていくうえで、私の場合物欲は果てしなくあるんですが…(苦笑)


本当は絶対に必要なものって、そんなにはないんだろうな~と…


実際最近携帯を持たなくなったんですが。。。


なんとなく不安だったのは初めだけで、今はなくても気にならなくなりました。


考えてみたら私には、数年前にはなくて当たり前のものだったわけですからね。


お掃除をしっかりするようになって、たくさんの本を読んで、身近な人とのお別れがあって、全て必然であると考えるようになった私の中で私にとって本当に必要なものが見えてきたような気がします。。。


さっき書いた新聞記事の〆にはこんな言葉が…


「残された時間はその有する多寡ではない。いかに過ごしたかであると思う。それには共に生きてくれる人たちが不可欠である。」